高嶺神社について
御祭神
高嶺神社には、
須佐之男命(すさのおのみこと/牛頭天王(ごずてんのう))
そしてその家族である
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
足那豆乳命(あしなづちのみこと)
手那豆乳命(てなづちのみこと)
が祀られています。
大蛇退治をなしとげた須佐之男命が結婚したのが
大蛇の難より救われた奇稲田姫命。
手那豆乳命・足那豆乳命はその両親です。
須佐之男命とその家族が御祭神とされている神社は
全国でも珍しく、
その様子から『家庭円満の宮』として親しまれています。
由緒について
上郡の町を流れる千種川に渡る上郡大橋に立つと、正面にコウモリが羽根を広げたようなシルエットの山が現れます。
その山は『高峯山(たかみねやま)』と呼ばれ、高嶺神社はその頂上に祀られているのです。
高嶺神社は、今から千年余り前、天禄3(972)年3月23日に、天皇の命令によって祀られました。
当時、播磨国には流行病があり、多くの人々が手立てなく死に至るという状況が続いていました。
そんなある時、毎夜天から光が降り注ぎ、また有明山(山野里小学校の裏にある山)からは光が立ち上がり、競うように明るさを放つという不思議な現象が起きました。
人々はその光を不思議に思いましたが、中でも、その光に貴さや有り難さを感じる人々は利益を受け、侮った人々は災いを受けることに。
やがてその光は、高嶺神社の元の場所となる『神田柳田森(かんだやなぎだのもり)』に辿り着きました。
この現象を天皇が調べたところ「牛頭天王(=須佐之男命)がこの土地を疫災から守る神として鎮まられた。疫病を払い、 民を救おうとしている。」というお告げを受けたため、天皇がこの地に牛頭天王を祀るよう指示しました。
すると、蔓延していた流行病は治まり、人々は正常の生活に戻ることができました。
約半年の間は、光が降りてきた神田柳田森で勅願所として祭祀が行われていましたが、やがて高峯山の山頂へ遷され『高峯山牛頭天王』として祀られるようになりました。
その後、萬寿2(1025)年に天皇の命令で特別な大祭が行なわれました。
60年後の応徳元(1085)年にも神のお告げによって特別な大祭が再び行われたことにより、60年ごとに『大開帳』といわれる臨時大祭が行われるようになりました。
これらは災害、疫病、事変などから国家・地域の安全を祈るという目的があります。
その後、時が経ち、足利尊氏が九州に向かう際に、当社に再起勝運を祈願。
そして達成したことにより、社を再興・七堂伽藍を配置し、五十石を寄付しました。
以後、赤松円心、 山名持豊、池田輝政、浅野三代など武将、大名の崇敬を厚く受け、播磨・備前・備中・因幡をはじめとする遠方の人々にも『天王さん』と親しまれ、信仰を寄せられながら現在に至っております。
宮司よりご挨拶
高嶺神社の運営に関しましては、平素より多くの方々のご理解とご協力を賜っておりますこと、誠に有り難く厚く御礼申し上げます。
当神社は、平安時代の天禄3年(西暦972年)9月23日にこの地に鎮座されて以来、郷土の先人たちに支えられて1050年が経ちました。
これは神社が御造営されてからの歴史ですが、もっと以前、古代人たちが二つの峰のある高峯山を信仰していた時代からと考えると、
時空を遥かに超えた歴史がこの地に刻まれていると思えるのです。
私は、このようなとてつもなく長い歴史と誇りを持つ地に生まれ生活する中で、神社に関わる様々なことを知り、郷里を愛する心がより強くなりました。
歴史や人情があり、誇りを持てるこの地が、幸せを祈る神聖なこの場所が、「大切な人たちの未来が明るいものになって欲しい」と願う心を持つ皆様のために、この先1000年、もっと永く続いていくよう努めてまいりますので、皆様方の尚一層のご指導ご鞭撻を賜りますよう、お願い申し上げます。